爽
緑にあふれたその公園は、わたしの想い人のお気に入りの場所だった。
春夏秋冬、それぞれに違う花が咲き、大きめの池には亀や魚が泳ぐ……非常に丁寧に手入れされた公園。
いつか彼に会えるような気がして、週に一度はここに来てしまう。
その日は公園に桜の花びらが舞い、快晴だった。
しばらく会っていないのに、後ろ姿だけで彼だとわかった。
あわてて駆け寄って、声をかける。
「リュウさま。お久しぶりです」
「……きみは……」
わたしの顔を見て、彼は驚愕に目を見開いた。
「……生きていたんだね」
「ええ。リュウさま……あなたに会うために、地獄から舞い戻ってまいりました」
「僕はもう『リュウさま』なんかじゃない。できたら、違う呼び方にしてもらえないかな？」
やわらかにそう問いかける彼の表情を見て、ほんとうに彼は『冥王星』から解放されたのだ……とようやく信じることができた。
＋＋＋
わたしと彼が最後に顔を合わせたのは、もう一年以上前のことになる。
棲龍館殺人事件――。
その事件において、天草流は殺人鬼として逃亡し、わたしは彼の逃亡に手を貸した。
その頃、わたしは『冥王星』の下っ端として、主に天草流の見張りをつとめていた。キング・ハデスやケルベロスといった大物と対峙することはほとんどなく、ただただ天草流の身の回りの世話をするだけ。もっとも、ほとんどの仕事は天草流の母親ということになっている『由利絵』のものだった。わたしは、彼の話し相手や遊び相手としてあてがわれていたようなものだ。
しかし、さまざまな事件をQクラスのメンバーとともに解決していく彼を、すぐそばで見ているうちに、わたしの心は変わりはじめていた。天草流には、悪の帝王なんてふさわしくない。彼のほんとうの居場所は、Qクラスなのではないか……。
そんな疑念を持って彼を見張っているとき、棲龍館殺人事件が起きたのだ。
「ハァ……ハァ……もう、ダメかもしれない……」
息を切らせ、ふらふらと体をゆらしながら走る少年。彼の後ろを、数多の警官たちが駆けてくる。
その風景を、路地裏から見ていた。
このままでは彼は捕まってしまう。しかし、キング・ハデスからなにも指示を受けていないのに、勝手な行動をしてもよいものだろうか。最悪の場合、処分されてしまうかもしれない。ずっとそう悩んでいた。
でも、結局、目の前で苦しむ彼を見て、わたしは助けずにはいられなかった。
「リュウさま。こっちへ……！」
路地裏に立つわたしがさしのべた手を、彼がぎゅっと握った。
『冥王星』の言いなりだったわたしが初めて、自分でなにかを選んだ瞬間だった。
「どうして、僕を助ける？ おじいさまの手先であるきみが。命令されたわけでもないんだろう？」
安全なところまで一緒に逃げたあと、彼はわたしにそう問いかけた。
その表情は硬かった。
無理もない。こんな状況で、だれかの善意を信じられるほうがおかしいのだ。
「自分でもよくわかりません。たぶん、キング・ハデスよりもリュウさまの味方でいたいと思ったから……でしょうか」
「それは危険な考えだ。今までどおり、おじいさまに従っていたほうが安全だよ。『冥王星』が潰えるまではね」
優しい声でそう言って、彼は口の端をちょっとだけあげて笑った。
「……リュウさまは、下っ端のわたしにも、御慈悲をかけてくれるのですね。でも、わたし、もう決めました。リュウさまのお力になります。もし、結果としてキング・ハデスに仇なすことになったとしても」
「後悔するかもしれないよ」
「今、リュウさまを見捨てたら、きっとわたしはもっと後悔すると思います」
彼はあきれたようにため息をついて、穏やかな表情でわたしに答える。
「わかった。では、僕の逃亡生活にちょっとだけ手を貸してくれ。実は、僕はただ逃げているだけではない。ある目的があるんだ。でも、これは僕の問題だから、無理はしないでほしい」
その後、わたしは彼の計画に協力し、『冥王星』から姿をくらました。
キング・ハデスが死亡し、天草流が自らの真実を知る、すこしだけ前のことであった。
不謹慎かもしれないけれど、彼とふたりだけで過ごした時間は、幸せだった。それまでのどんな日々よりも、充実している気がした。
「おじいさまよりも僕が大事だと言ってくれてありがとう。ここから先は、ひとりでかたをつけに行くよ」
彼はそう言って、自身の因縁へと挑んでいった。
それ以来、彼とは一度も会っていなかった。
＋＋＋
公園の桜はまぶしいほどに淡く、薄い花弁がはらはらと舞い落ちる風景は彼によく似合った。
散りゆく花を見ながら過去の物語を振り返った天草流は、あらためてこう口にした。
「もうプリンスでもなんでもないんだ。きみも、キング・ハデスや僕に従う必要はない。『リュウさま』なんて他人行儀な呼び方はやめにしよう」
「なんとお呼びすればよろしいのでしょう？」
今までずっと王子として崇めていた立場の者としては、急に平民に戻ったと言われても、態度を変えづらい。
わたしは困惑して黙ってしまった。
「リュウくん、とか？」
頬を赤らめつつ、彼がそう提案してきたので、復唱してみる。
「……リュウくん」
「そう。僕もなまえって呼ぶから」
「なんだか、くすぐったいですね……」
「そのうちに慣れるよ。きみも、もう自由の身なんだろう？」
「ええ。リュウくんのおかげで……ひとりで歩きだせました」
「僕もきみも、もう『冥王星』の人形じゃない。自分で選びたいものを選びとれるようになったんだ」
彼は、舞い落ちてきた花びらを自分の手のひらの上にそっと載せた。
わたしも真似をして、花びらをつかまえてみる。
なんだかひどくおかしな気持ちになってきて、ふたりで顔を合わせて、にっこり笑った。
「ありがとう、リュウくん。これからもリュウくんと一緒にいても、いいですか？」
「もちろん。きょうはなまえと過ごせてよかった。これからもよろしく」
春めいた、さわやかな風がふたりのあいだを吹き抜ける。
長い呪縛から解放されたわたしたちの人生は、まだ始まったばかりだ。
20170621