私が『冥王星』にやってきたのはいつのことだったのか。なぜ、この集団の一員となったのか。その始まりの日を思い出すことはできそうにない。私のなかにはここ一年ほどの記憶しか残っておらず、それ以前のことはまったく思い返すことができないからだ。
 気づいたときには、彼の助手として『冥王星』で働いていた。
 彼――『地獄の門番』ケルベロスの助手。
 それが、この私の肩書であり、唯一の存在の意味だ。
「これから、よろしくおねがいしますね。あなたは誇り高き『地獄の門番』の助手にふさわしい女性なのですから……」
 一年前、彼から最初に言われたこの言葉だけは鮮明に覚えている。
 私にとって、この言葉はなににも代えがたい救済だった。

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 その夜の月はとても美しくて、彼に似合いだった。
 彼には昼間の太陽は似合わない。淡く溶ける月の色こそが、いつも彼という存在を厳かに引き立てる。
 しかし、話を始めるより前に、月が雲で隠れてしまったため、私は思わずため息を漏らしてしまった。彼もまた「残念だ」とつぶやく。私たちの前に座るクライアントは、そんな彼の様子にイライラしているようだった。いつまでもイライラさせておいてもしょうがないので、彼は今回の計画について、クライアントと話しはじめた。DDSの乱入という思わぬアクシデントに、クライアントは動揺しているらしい。計画の延期を懇願するクライアントを、彼はうまくなだめた。彼にしてみれば、DDSに屈することなど最初から考えられないのだろう。彼のプライドがそんな妥協を許すはずがない。むしろ運命の必然として、このできごとを捉えているようだ。
「私の名はケルベロス。こちらの女性はミス・なまえ。私の優秀な助手です」
と、すべてを話し終えた彼は軽く自己紹介をし、
「この完全無欠たる計画がうまく運ぶことを祈願して――乾杯」
淡い月が照らすなか、優雅にワイングラスを掲げた。私も、同じようにグラスを持ち上げる。クライアントは戸惑うように私たちを見、額に汗をにじませていた。
 今回の立案計画のことは、『雪月花殺人事件』とでも呼ぼうか。月のよく似合う彼には、とても似合いの殺人事件ではないだろうか。私は呑気にも、そんなことを考えていたのだった。

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 Qクラスが仲違いをし、分裂した日の深夜――闇にまぎれて待機していた私は、突然彼に呼び出された。
 霧雨家のメイドである不二村節子に変装し、彼女の部屋へ行ってほしい、と彼は告げた。
 彼ほどの達人ではないが、私にも同性に変装することくらいはできる。
「私が『節子』に化けるのですか? なんのために?」
「おそらく、リュウさまが今夜、私を呼ばれるからですよ。そのあいだ、『節子』が不在となってしまうと不都合ですからね」
「リュウさまが?」
 ざわり、と――嫌な予感が胸を刺した。『プリンス』と彼が呼ぶ『冥王星』の後継者、天草流。団守彦の後継者候補のなかでも特に優秀な成績を収めている彼とは、すでに病室で一度、顔を合わせている。彼にとっては忠誠を誓うべきプリンスなのだろうが、私には、天草流がわれわれのような闇に与するタイプの人間だとは思えなかった。すくなくとも、現在はそのような兆候はない。そんな天草に、彼が呼び出されるということは……。
「大丈夫なのですか?」
「心配いりませんよ。私を信じてください」
淡々と、感情のこもらない声で返答された。普段ならば、彼のことを心配するなどという愚かなことはしない。彼は決して失敗しないからだ。しかし、相手があのプリンスだというのならば、話は別だ。彼が天草となにを話すのかを想像しようとすればするほどに、私のなかでは不安が大きく膨らんでいった。
 『不二村節子』であらねばならない以上、彼と天草の対談を監視することはできそうにない。
 不安は満ちるのみであったが、私は歯噛みしながら変装をし、早足で自分の行くべき場所へと向かっていった。

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 心が揺らいで、眠れなかった。気づいたら朝が来ていて、彼から昨晩の顛末を聞かされた。
 私の不安は的中していた。彼は天草流の挑戦を受けてしまったのだ。
 彼が敗北したら、お縄につけというプリンスの要求を飲んだのだという。
「まさか、ほんとうに逮捕されるおつもりではありませんよね?」
 私は彼にすがりつきそうになる自分を、必死に制した。
「そんなわけはありません。私をだれだとお思いですか? あれは心理的な罠であって、本気の約束などではありませんよ」
 『地獄の門番』、ケルベロス――普段ならば非情に徹する、氷のような男だろう。しかし今回は事情が違う。相手は我らがプリンス、天草流なのだ。彼が素直に条件を飲んだとしても、納得できるほどの相手だ。
「……お願いです、約束してください。どんなことが起きても、捕まったりしないと――」
「おやおや。あなたにしては、随分と弱気だ。このケルベロスのことが、信用できませんか?」
彼は肩をすくめ、やれやれといったポーズをとった。
「では、捕まったときのために、あなたに催眠をかけておきましょうか」
「……催眠?」
ずくんと心が痛んだ。なぜだろうか、催眠という言葉を彼の口から聞くと、妙に心が軋んでいく気がする。自分が自分でなくなってしまいそうな気分になる。
「私が逮捕されたら、あなたは私の助手ではなくなってしまうかもしれません。そのときには、『ケルベロス』のことはすべて忘れる……そんな催眠はどうです? これなら、『冥王星』にいつまでもいられる」
「冗談はやめてください。私はケルベロスさまだけのしもべ……あなた以外にお仕えする気などありません。忘れるくらいなら、死んだほうがマシです」
「ほう。そうですか」
声を震わす私をじっと見つめ、彼は愉快そうに笑った。なにを考えているのか、常日頃からよくわからない彼だけれど、今はちょっとうれしそうだ。自分が逮捕されたときの話をしているというのに、どうしてこんなにうれしそうなのだろう。彼は笑みを浮かべつつ、口火を切った。
「あなたは、実によくできた助手です。このうえなくスムーズに動いてくれますし、余計なことを一切しない。そのスマートさが、『地獄の門番』のしもべには最適なのです。そんなあなたを失いたくない。私が捕まってしまうと、『冥王星』はあなたを処分してしまうかもしれません。それは避けたい事態だ」
――あなたを失いたくない。
 その言葉を聞いて、私の心臓が早鐘を打ちはじめる。彼は、恋を匂わせるようなことをめったにしない。この雲をつかむような性格の彼が、ほんとうに恋をしているのかどうかなんて、愚かな私にはわからない。しかし、こういうちょっとした言葉の端々に恋愛感情を感じとれたとき、私は彼の助手でいてよかったと思う。私は間違いなく、彼に恋をしている。そう実感することで、助手として、もっと有能になれるような気がする。
 彼は、こう続けた。
「ですから、もしも私が逮捕されたならば、あなたは逃げてください。私は自分の力で脱獄することができますが、あなたがキング・ハデスの手から逃れることは難しいでしょうからね。もし、キング・ハデスではなく私に仕えたいと望むのならば、私を信じて逃げ、身を隠してほしい。そうしてくれれば、私はあなたを迎えに行ってみせましょう。そこがどんな地獄の果てであったとしてもね」
「わかりました。催眠なんて不要です。私は私の意思で、逃げてみせます」
「そうですか――」
 と言って、彼はふっと笑った。
 いつもとは違う、悲しげな笑い方。
 どうして、そんな顔をするのだろうか。
 まるで、私の言葉のなかに、重大な誤りがあったかのような笑いだ。
 私は、なにか妙なことを言っただろうか。
 彼はその笑いを浮かべたまま、優しい声でこう囁いた。
「心から信じていますよ、ミス・なまえ。あなたのことだけを、いつまでもね。あなたは私の最高の助手なのだから」
 ただそれだけの言葉が、至上の愛の告白に感じられた。
 私と彼には、その言葉だけで充分だった。きょうの月もやはり美しい。彼のあいまいな告白にふさわしい淡さで、夜はゆらゆらと溶けていった。
 その月光と彼を間近で見ているだけで、なぜだか私はむしょうに泣きたくなる。それもやっぱり、恋のせいなのだろうか。

+++

 ミス・なまえと別れたケルベロスは、淡い月を見上げつつ、こうつぶやいた。
「『催眠なんて不要』ですか」
 先ほど彼女が放ったこの言葉は、ケルベロスの心を彼自身の予想以上に揺らしていた。その揺れが計画外の事象への動揺なのか、それとも過去への後悔や懺悔の類なのか。若きケルベロスには、まだよくわからなかった。
 近ごろ、彼女が必死に自分を慕うたび、そんな彼女が愛おしくなる自分に、ケルベロスは驚いている。自分のなかにそんな感情が眠っていたとは、夢にも思っていなかった。時には命をかけ、時には身を粉にして、彼女はケルベロスのしもべとして動いてくれている。あまりに理想的な献身。ただの助手というだけでは、そのような捨て身のまねはできないだろう。命をかけてもいいような、夢のような恋に彼女は落ちたのだ。そんな幸せそうな彼女を見ていたら、自分も同じ場所へ落ちてみたくなる……。常に冷徹であろうとする『地獄の門番』にふさわしくない、甘美な誘惑がその先に控えている気がした。
 だが、同時にケルベロスは、彼女そのものがまやかしであるという事実に目を向けざるを得ない。ほんとうの意味で恋に落ちるために、必要なピースがひとつだけ欠けている。それを埋めるまでは、あいまいな愛の告白しかできそうにない。彼はぽつりと、こうつぶやいた。
「誠に申し訳ないことに、あなたにはもう、催眠がかかっているんですよ。ミス・なまえ 。私の助手となったその日から、ずっとね」
 彼女には一年より前の記憶がない。当然だろう。ケルベロスが催眠で消してしまったのだから。大量の記憶を一度に消してしまうのは、いくら催眠暗示のエキスパートであるケルベロスといえども、やすやすとできることではない。だが、彼女はケルベロスと出会ったとき、すでに自分の記憶を消したいと願っていた。本人が忘れたいと思っていることを後押しする催眠は、通常の催眠よりも簡単である。結果として、彼女の記憶はきれいに消えてしまった。催眠を解除しない限り、元には戻らないだろう。
 彼女はケルベロスには決して逆らわない。それも当たり前だ。彼女はケルベロスのしもべとして、常に最適化された行動しかとらない。そういう催眠をかけている。つまり彼女は自動操縦のロボットのようなものだった……すくなくとも、一年前までは。
 しかし現在、彼女はケルベロスにとって計画外の存在となっている。記憶を消されたあわれなマリオネットであったはずの彼女は、いつしか自分の力で考え、歩きだしてしまっていた。

『ケルベロスさま。私はあなたをだれよりもお慕い申し上げております。いつまでだって、あなたについてゆきます』

 彼女がそう言ってにこやかに微笑んだとき、ケルベロスは心の底から驚いた。彼女の目は、忠誠とはまったく異なる感情によって、いきいきと輝いていた。
 ありえないことが起きている。そう思った。
 忠実なるしもべは、あるじの知らぬ間に新たな感情を獲得していたらしい。
 ケルベロスの計画には絶対になかったはずの、あまりに『冥王星』らしからぬ感情を。
 ケルベロスは朱に染まる彼女の頬を思い返しながら、こうつぶやいた。

「あなたが私に抱いた『恋情』――それだけは、私が催眠でしつらえたものではない。からっぽのあなたが獲得した、唯一のほんものの心だ。そして、私はそれに特別な価値を見出してしまっている。そう知ったら、あなたはどんな顔をするでしょうか……」

 彼は、今宵の月を見上げてみる。蒼い月光は厳かに彼を照らしていたが、ふいに雲が流れてきて、その光を遮った。
 まるで、愚かな彼の問いに対し、彼女が答えを与えることは、絶対にないだろうという真実をつきつけるかのように。
20170327
リクエストより、「探偵学園Qで、ケルベロス夢 原作絡み」をお届けしました。
両想いなのに悲恋というか、ちょっと人を選ぶタイプのお話になってしまったかもしれませんが、すこしでもお楽しみいただければ幸いです。
ケルベロスは普段書かないタイプのキャラクターなので、ちゃんと再現できているかドキドキです。原作を読み返しつつ、ネタを考える作業がとても楽しかったです。リクエストありがとうございました!