さざなみの恋
「なまえはうつくしいよ」
彼はだれにでもそう言えるニワトリだった。村の住民のジェーンと恋仲だという噂もある。女性にはだれにでも等しく優しい。だから、何度容姿を褒められても、あまりうれしくはなかった。
そもそも、わたしは自分がまっとうに女性扱いされるような人間だとは思っていない。いつだって、虫取りあみ片手に走りまわっているような女だからだ。うつくしい、なんて言われると、体がむずがゆくなってしまう。
「この海もまたうつくしい」
海辺にふたりで並んで座る。三年前まで、イベントがない日は、彼とそうして過ごしていたことを思い出す。
それだけで満たされて、ほかになにもいらなかった。
この気持ちが恋なのだか、友情なのだか、よくわからない。
でも、彼とジェーンの噂はわたしの心をささくれさせていた。なぜなら、似合いのふたりだったからだ。その噂について、彼に尋ねたことがある。「ジェーンのプライバシーもあるから」と、ごまかされてしまった。結局、真相はわからなかった。
……ずっと、ふたりで海を見ていようよ。
恨みがましく、そう言いたくなる。
「うつくしいうつくしいって、だれにでも言えるんでしょ。そんな言葉で褒められても、わたしはうれしくないよ」
「キミはいじわるだね。そんなだから、目が離せないんだよ」
皮肉のように言って、彼は眠たげに目を細める。時刻は深夜二時。模範的なニワトリなら、寝ている時間だろう。
「どうして、旅に出たの? 三年も……」
彼はそう尋ねた。さっきからずっと、それが聞きたかったのだろう。
きょうの昼、わたしが村に帰ってきたとき、彼は驚いたようにわたしを見つめていた。幽霊でも見たような顔だった。三年間も村を留守にしていた村長が、急に村に戻ってきたのだから、そんな顔になるのは当然だろう。一方で、わたしも、三年も経つのにまったく変わらない彼を見つめずにはいられなかった。
村を出ようと思った理由は、自分でもわからなかった。最初は、ちょっと他の村を見に行こうと思っただけだった。村の外へ出てみたら、もっと遠くへ行きたくなってしまった。夢心地の旅だ。にぎやかな村のほかに、落とし穴だらけの村や、だれもいない寂しい村もあった。村人が全員スコップを手にして歩きまわっている村もあった。そうして、たくさんの村を転々とするうちに、もとの場所へ帰ることが怖くなった。
……村に戻ったら、彼がジェーンとよろしくやっているのではないかという予感がしていた。あるいは、彼は引っ越してしまって、もうどこにもいないかもしれなかった。その現実を直視したくない。強く強く、そう思った。
「この村と向きあうのが怖かったのかもしれない」
ようやく、わたしはそれだけ言った。彼は、海を見ながら言葉を投げ返す。
「いまでも、怖い?」
「どうかな。クロベエは優しいから……いまは楽しいかもね」
それでも、確固たる安心がないことには変わりがない。ジェーンとふたりで同じ家に暮らす彼を想像すると、つらかった。そんなことになったら、今度は旅に出るのではなく、引っ越しをしようと思った。
「ボクだって、怖いよ」
「なにが?」
「向きあうのが」
午前二時の海は静かだ。フナムシのようないやなものはいないし、魚が跳ねる音すらしない。波の微かな音だけがさらさらと流れていく。彼の声は、そんな海の上を鮮やかに渡っていくのだ。
彼は、何と向きあおうとしているんだろう?
真意を彼に聞くのはとても怖い。だって、それはジェーンへの愛かもしれない。
「でも、向きあわなきゃいけないって思ったよ」
彼はひとりで言葉を継いでいく。もう、それ以上言わないでほしい。
たまごの殻を破るようにして、わたしの望まない彼が立ち現れそうな気配がする。
しかし、彼はジェーンへの愛など語ろうとはしていなかったのだ。
「この三年間、ずっと思ってたんだ。キミが戻ってこなかったら、ボクはどうしようって。旅に出ることも考えたけど、明日にもキミが戻ってくるかもしれないと思うと、どこにも行けなかったよ」
わたしは驚いて、黙った。聞き違いかもしれないと思った。
三年間、彼はずっとここでこうして、わたしを待っていたとでも言うのだろうか?
「この海は三年間、変わらなかったと思う。海の向こうにキミがいるかもしれないと思いながら、毎晩ここにいた。でも、ひとりで見た三年分の海よりも、今夜の海のほうがうつくしいよ」
「それも、お世辞?」
疑念に満ちたわたしの言葉に対して、彼はおかしそうににっこり微笑んだ。
「ねえ、なまえ。これ、お世辞に聞こえる? そんなに、ボクが信じられない?」
「……信じられないよ。だって、みんなに優しいんだもの」
「みんなに厳しいよりはいいと思うけどな」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、どういうことなの? なまえはいま、なにを考えてる?」
妙に強気に問い詰めてくる彼は、深夜の魔法にかけられているようだった。
そんな彼にじっと見つめられて、わたしは思わず、本音を口に出してしまった。
「……クロベエと一緒に海が見られて嬉しいよ。あなたがだれのものにもなっていなくて、すごく安心してる」
最後の方は涙声になってしまって、うまく言えなかった。
彼は照れくさそうに笑った。
「ボクもだ。キミが旅の途中でだれかにとられてしまうかもしれないって思うと、村じゅうのさくらんぼを片っ端から食べちゃうくらい、気が気じゃなかった」
「なにそれ、変なの」
「変なのはお互いさまだよ」
などと言いながら、三年間のすれ違いが、結果的にわたしたちを結びつけてくれたような気がして、また泣きそうになった。
わたしたちは、この小さな村で、隣人として暮らしている。彼の家はわたしの家のすぐ隣にある。だれよりもそばにいたはずだ。でも、ほんとうの彼のことなんて、見えていなかった。ジェーンのことが好きに違いないなんて、根も葉もない噂を鵜呑みにしたりして。挙句の果てには、三年も村を留守にした。わたしは、最低の村長だ。
「女の子を安心させるのは、男の仕事さ。それができないボクのほうが滑稽だったんだ」
心を読んだみたいにそう言った彼が、わたしの肩をぽんと叩いた。そのぬくもりが心に伝わった瞬間、ようやく「わたしはこの村に帰ってきたのだ」と思った。三年分のぬくもり。三年分の、罪悪感と感謝。ぜんぶぜんぶ、彼がくれたものだった。
「ごめんね、クロベエ。もう、とびだしたりしないから。絶対」
わたしの謝罪の言葉に、彼は無言で微笑むことで答えた。
20170111