「   雨が降っていた。下人は、死ぬことにした。   」

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 彼は完全に狂っていた。初めて出会ったときからずっと。
 彼は、雨の中、ずぶぬれのままでひれ伏すように地面に倒れていた。
 行き倒れの人だと思った。
 おそるおそる近づいてみて、その異様さに目を見張る。
 ぼさぼさの髪。ぼろきれのような服。そして、隠さずに腰に据えられた大きめのナイフ。
――そういえば、最近連続切り裂きジャック犯が逃亡しているというニュースが流れていたっけ。警官を刺して逃げたという凶悪犯だ。この男はそれなんじゃなかろうか。
 ぼんやり考えつつ、わたしは彼に近づいて、あの、と声をかけた。
 ぴくり。彼の体が少しだけ動いて、顔が上げられた。髭が伸びていて、決して二枚目とは言えない顔だけれど、そんなに悪い人には見えなかった。頬は痛いくらいにこけていた。
 虚ろな目をした彼が、わたしの顔を見た。

「妙子……?」
「え?」

 泣きそうな声で彼は言う。何度も何度も。たえこ、たえこ、たえこ。たえこが出てきてくれないんだ。呼んでいるのに。こんなにも大声で呼んでいるのにたえこたえこたえこ。彼女は僕の中に発現したんだだからここにいるはずなんだ。でもいない。どこにもいない。どうしてだよもう僕には君しかいないのに。
 うわ言のように一気に言った彼は、言葉を切ってわたしを見上げた。救いを求めるようなまなざしだった。

「おまえは妙子なのか……?」

 雨の音で切れ切れになった彼の声は必死だった。
 まるで、『妙子』がいなければ世界が終ってしまうみたいに――

「そうだよ」 

 自分がなぜそんなことを言ったのかはいまだにわからない。
 自分は『妙子』ではないし、この男のことなんか知らない。まるっきりのウソだった。
 でも、そのときはそれが最善だと思った。
 あまりにも彼が気の毒で――気の毒で、仕方がなかったから。
 ああ、妙子――と言って、彼はまた意識を失った。わたしはその彼の傍らで、傘をさしていた。
 雨はやみそうにない。せめてこれ以上彼が濡れないよう、彼が目覚めるまでそこにいることにした。





100417
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