彼、幾斗君に初めて抱いた感情は苛立ちだった。
 自分が遠い昔に諦めたもの、捨てたものを、彼は堂々と持っているような気がした。
 そう、苛立ちの根本にあったのは彼への羨望の気持ちだったのだ。
 ところで、最近のぼくと彼との関係は、わりとましなものになってきていると思う。日奈森あむにぼくがいろんな策を弄していた頃、月詠兄妹はぼくのことを蛇蝎のごとく嫌っていたものだったが、ここ数週間でこの二人との確執はなくなってきていると思うのである。そもそも、イースターという共通項を失ったぼくと彼らには、接触自体が少ないというのもあるのだけれど、それを差し引いても、「ましな関係」だと胸を張って言えるようになった気がする。特に、月詠幾斗との関係については。
 だから、自分が彼にある種の羨ましさを抱いているということも、彼に伝えてみてもいいのかもしれない、とぼくは思い始めていた。伝えて何かになるのか?と自問してみたけれど、特に利点などはない、という答えが既に出ている。では何故伝えるのか、と言われれば、彼と言う存在が気になるから――彼ともう少し話をしてみたいから、だと思う。
 そんなことを考えて悶々としていた矢先、久々に、そして唐突にぼくの元へ訪ねてきた月詠幾斗は、どういうわけかこう言った。
「あのさ、今度の日曜日、空いてる?」


ぽかぽか日曜日


 イースターにいた頃のぼくは、無自覚にいろんなことを諦めてしまっていたような気がする。
 出世以外の何もかもが、どうでもよかった。誰かに好かれることも、誰かと笑い合うことも。その諦念の根源にあったのは、今思えばあの女の別れ際の言葉だった。
『あんたを見てると吐き気がするの。そんな性格じゃ誰にも愛してなんかもらえないわ』
ぴしりと心にひびが入った気がした。
 そのときからだ。どうせ愛してもらえないのなら、愛されるための努力なんて無駄だと思いはじめたのは。本当の「なりたい自分」を完全に見失ったのも、たぶんそのとき。
 日奈森あむという少女のおかげでぼくはいろんなものを取り戻せたはずだ。今のぼくなら誰かに必要としてもらえるかもしれない。愛してもらえるかもしれない。そんな期待を淡く胸に抱いてぼくは生活している。
 ――けれど。ときどきぼくの脳裏に浮かぶのはやはり三条のあの表情なのだ。
 嫌悪と軽蔑、憐憫を含んだあの顔。ぼくは、日奈森あむや彼の表情がそういった色に染まることを、ひどく恐れているし、日々怯えている。
 だから、今日彼とすごすのも、実は少しだけ、怖い。


 待ち合わせ場所に着くと、その場所にはすでに月詠幾斗がいた。
「あ、二階堂さん」
「……ども」
本来ならば「待った?」「いや、今来たところだ」という様式美的なやり取りをするべきなのかもしれないが、ぼくはそのセリフを切り出すことができずに黙った。彼も何も言わない。
 ぼくは、黙っているうちに彼の服装を素早く観察した。
 相変わらずの、黒を基調とした、センスのいいファッションスタイル。
「今日もいいカッコしてるね、キミは」
ぼくは皮肉を混ぜてそう褒めてみた。するとすかさず、
「あんたの私服は相変わらずダサすぎだな。いっつもあのスーツ着とけばいいのに」
という答えが返ってくる。彼は見栄や意地でそんなことを言うほど子供ではないので、おそらく心底そう思っているのだろうと思われた。
(……そんなにダサいかな、ぼくの服……)
 いっそ仕事着であるクリーム色のスーツを私服に転用してしまおうかと真剣に脳内会議を開始したぼくに、彼は一言、「先に行くぜ」と言ってすたすたと歩きはじめた。


 ぼくらはとりあえず、映画館で今流行りのアクション映画を見ることにした。意外にもそれは彼の希望だった。彼に映画を見る趣味があったとは知らなかった。もしかしたら、気まぐれで適当なことを言っているだけで、映画に興味などないのかもしれないけれど。
 わりと早めの時間に来たつもりだったのだが、チケット売り場にはもうだいぶ列ができている。ぼくらはその列に加わりながら、
「やっぱり混んでるね」
「休日だから」
とそっけないやり取りを交わす。
 カウンターにたどり着くまでには五分ほどかかった。
「おとなと学生、一枚ずつください」
とぼくが笑顔で言った。かしこまりました、と売り場の女性が愛想笑いをする。
(ああ、そういえばぼくは「おとな」で、月詠幾斗は「こども」なんだったな)
とぼくはふと考える。大人びた彼と一緒にいると、自分が彼よりずっと年上であることなんて忘れてしまう。忘れている方が幸せなのかもしれない。現実に引き戻されたら、何かを失ってしまう気がする。こんなことを考えていることを彼が知っても、おそらくはただの感傷だとぼくをいさめるだけだろう。彼にはぼくの不安なんて理解できなくて、そして理解が得られないからこそ、ぼくは彼と一緒にいたいと思うのだ。それは、矛盾しているようで、自分の中では筋が通っている、不思議な感情だ。


 席は前すぎず後ろすぎずといった位置だった。座ってからライトが消えて劇場が暗転するまでの間、ぼくと彼は無言でポップコーンをつまんでいた。
 映画は最先端のCGを駆使した大作で、ぼくは億単位でかかっているであろう制作費がいかほどものか頭の中で計算するという無粋な行為に没頭していたのだけれど、ふとポップコーンが先程からあまり減っていないことに気づいた。視線をスクリーンから隣の席に移し、ぼくは自分の目を疑った。月詠幾斗は、映画の効果音とセリフを聞きながら、気持ち良さそうに眠りこけていた。
「映画が見たかったわけじゃないのか、やっぱり……」
しかし、それならば何故彼はこの映画が見たいなんて言ったのだろう。ぼくは少し考えてみたけれど、見当もつかなかった。ぼくと彼では、年齢も生まれ育った環境も、考え方も違いすぎるのだから。
(……それにしても)
ぼくは月詠幾斗の寝顔をじっと見た。整った顔立ち、女性のように長いまつ毛。軽く閉じられた薄い唇。
(ほんっと、ムカつくくらい美形なんだよな、この子)
人気アイドルほしな歌唄の兄というだけのことはある……などと考えつつ、少しドキドキしている自分に気づき、ぼくは何かを振り払うようにふるふると首を振った。
(なんで学生相手に、しかも男に、こんな感情を……!)
しかしぼくは結局、彼の顔から目をそらすことができなかった。
 映画が終わり、灯りがつくと同時に彼は目を覚まし、ぼくは我に返って思わず自分の口を押さえた。
(何を……何をしてたんだ、ぼくは……!!)
「どーしたの。なんか顔赤いけど」
あくびをしながら尋ねてくる彼に、ぼくはうわずった声で返答した。
「な……なんでもないよ」
「ふーん、そう」
どうでもいいことのように相槌を打ちつつ、続けて、彼はさりげなくこう言った。
「ずーっと、俺の顔見てるから、俺に気でもあるのかと思った」
最初、何を言われたかわからなかった。
 彼の言葉の意味を理解すると同時に、自分の顔が火でもついたかのように熱くなったのを自覚した。たぶん、今、ぼくの顔は紅潮してしまっていることだろう。
 くそ、これでは肯定の返事をしているようなものじゃないか。
「きっ……君、起きてたの!?」
「こんなにうるさいのに寝れるわけないだろ」
「だからって寝たふりしてるなんて……!」
ぼくの言葉など聞こえないかのように余裕のある笑みを浮かべて、
「二階堂さんがあんまりアツい視線で俺の方見てるもんだから、起きづらくて」
と彼は明らかにふざけた口調で言った。完全に遊ばれている。
「ぼ、ぼくは別に君のことなんか……」
思わず目をそらして弁解しようとぼくは口を開いたのだけれど、彼は自分の鞄を手に取り、
「出ようぜ。いつまでも座ってたら邪魔になる」
すたすたと出口へと歩いて行ってしまった。ぼくは仕方なく、二人分のポップコーンとジュースを抱えて後を追おうとした。……のだけれど、動転していたせいか段差につまずいて転んでしまった。床に派手にぶちまけられるジュースとポップコーン。カウンターの女性が慌てて寄ってくる。その背後で、冷めた目をした幾斗君がぼくを見ていた。彼は小さな声でこう言った。
「相変わらず、ドジキャラなんだな、あんたって」
口調こそ冷たかったが、その言葉は言外に親がわが子を思うような温かさを含んでいるような気がして、ぼくは安堵した。
 うん、まだ、見放されてはいない。
 大丈夫。



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