数十分後。
「……ぷっ」
商店街の通りを歩いているぼくの横で、月詠幾斗は耐え切れずに噴き出した。ちなみに、彼が噴き出すのは映画館を出てからこれで三回目だ。
「あのさ、人の顔を見て笑うの、いい加減やめてくれるかな」
渋い顔をしてぼくがそう言うと、彼は切れ長の目でぼくの方を見やる。
「だってさ……どうやったら転んだ拍子に頭からジュースかぶることになるわけ?」
「う」
反論できずに黙り込むぼくに、彼は更に追い打ちをかけるように、
「それにそのTシャツ……ダサすぎ」
と言った。
「仕方ないだろ。あそこにはこれしか売ってなかったんだから!」
ぼくはやけになってそう言い捨て、そっぽを向いた。
 あのとき、映画館でつまずいたぼくの頭をなぜか持っていたジュースが襲い、起き上がるときにはぼくの髪と服はジュースまみれになっていた。走り寄ってきた女性は笑いをこらえながらぼくに大丈夫ですかと声をかけ、周囲の人々は顔を見合せてくすくすと笑っているようだった。幸い、映画館には、放映中の映画のTシャツが売られていた。それを買ってきて、汚れた服の代わりに着ようと思い、ぼくは幾斗君とともに売店に向かったのだけれど……間の悪いことに、まともな柄のシャツはすべて売り切れ。残っているのは子供向けの特撮映画のシャツだけだった。しかし背に腹はかえられず、ぼくは泣く泣くそのシャツを買ってトイレで着替えたのだった。
 視線を戻すと、幾斗君はまだ、手で口元を隠してくすくす笑っていた。普段ほとんど笑わない彼が、こんなに笑っているという事実が、ぼくは少しだけ不思議だった。笑っている幾斗君は別人のように見えた。
 彼はこんな風に笑うんだ――イースターに捕らわれている彼も、ちゃんと笑うことができるんだ。そう確認して、ぼくは少し安心していた。彼の心は、もっと固く閉ざされいるように思っていたから。
 しかしいつまでもこうしているわけにもいかない。
「で、そんなことより、これからどうするんだい?」
ぼくはそう尋ねた。
「どうって?」
淡々と問い返す幾斗君。
(わかっているくせに)
ぼくは心の中でキャラチェンジして毒づくが、表面上はにこにこと笑って答える。
「だからこれからどこに行って何をするかって話」
「……別にどこでも」
ああ、この態度こそぼくの知る幾斗君のものだ。仏頂面で、何に対してもどうでもよさそうな態度。どうやら元の彼に戻ったらしいな、などと考えつつ、
「あのさ、ぼくはキミみたいに若くないから、若い子がどういうところに行きたいものなのかわかんないんだよね」
「……あー」
彼は面倒臭そうに頷き、「了解」と言いつつ、こう提案した。
「じゃあ、買い物、とか」
「うん、わかった。どこがいい?」
彼は有名な服のブランドの名前を口にした。このあたりだと、そのブランドの店は……たぶん最寄りのデパートにあったはずだ、とぼくはぼんやりと考える。ぼくがその方向へ向けて歩き出そうとする前に、幾斗君はすでに先陣を切って歩きだしていた。


 デパートに着き、ぼくらは立ち並ぶブランド店の間を二人並んで歩いている。特に変わったことなどはないのだが、ぼくは内心、ひどく焦っていた。
 何故なら、先ほどデパートに向け歩き出してから、今に至るまで、ぼくらは一言も言葉を交わしていないのだった。彼はもともと無口だし、ぼくはといえば、彼の好む話題がいまいちよくわからないのだ。しかしずっと黙っているのはなんだかいけない気がする。
 何か、しゃべらなければ。
「えー……あの……うん」
「何」
そっけなく前を向いたままそう返す幾斗君は、やっぱり冷めた目をしている。
ぼくはとっさに、
「あのさ!……たらことめんたいこってどっちが偉いのかな」
と言った。
「………………は?」
彼は怪訝そうな顔をする。あからさまな失敗だった。自分でも自分の問いの意図がまったくわからない。いくら慌てているとはいえ、もう少しマシな言葉はないものだろうか。
 ぼくは馬鹿か。馬鹿なのか。
「いや、あの……なんでもない、わ……」
忘れてくれ、そう言いかけたぼくの言葉を遮って、幾斗君は言う。
「二階堂さんは?」
「え?」
予想していなかった問い。それを彼はもう一度繰り返す。
「二階堂さんはどっちが偉いと思うわけ?」
「ぼ、くは……」
たらことめんたいこ。
 どっちが……偉い?
 そんなのどっちだってかまわないけれど……それでは、彼の機嫌を損ねてしまいそうだ。そもそも、どうだっていいことをわざわざ尋ねるなんてどうかしている。ここは、何かもっともらしいことを答えなければ。
「ええと、めんたいこ……かな」
「それはどうして?」
「その、あの……辛いから……?」
ぼくは必死に答えを絞り出した。しかしその答えを口に出した瞬間激しい自己嫌悪に陥った。まったくもって、もっと頭のいいことを言えないものだろうか。
 ぼくは、彼が呆れてしまわないだろうか、とおそるおそる彼のほうをうかがった。
 ぼくの視線を受け、幾斗君はおいしいものを食べたときのように口元を緩ませて笑った。
「二階堂さんって、変な人だよな」
「へ、変な人……」
ぼくはその評価に少し落ち込んだのだが、彼の「変な人」という呼び方には軽蔑や嘲笑の響きはなかったので、そんなに落ち込むものでもないかと思いなおした。
 そうこうしている間に彼の目当ての店が見えてきた。彼が少し歩調を速めてその店に入って行ったので、ぼくもその後に続いた。


 彼の目当ての店での買い物ののち、いくつかの店を回り終え、時計を見ると三時を過ぎていた。
「何か……食べに、行こうか」
ぼくはおそるおそるそう提案した。彼は黙ったまま頷いて、地下へ向かうエスカレーターの方を指差し歩き出す。ぼくはその後姿に続いた。
 デパートのファーストフードコートは少し混んでいるようだった。日曜日だから当然と言えば当然だ。
「…………ソフトクリーム、か」
ぼくがメニューを見ながら何を頼むか考えていると、そんな彼の呟きが聞こえた。ぼくに言ったのか、それとも独り言か……どちらなのかわからなかったので、ぼくは訊いた。
「キミは、ソフトクリームにするの?」
幾斗君は頷きながら、何か考えているようだった。いや、何か思い出している、の方が的確だろうか。ぼくには、彼のその様子は、記憶を掘り起こして、過去へ思いをはせているように見えた。
 彼のその記憶の中にぼくがいないのは明白だったけれど、別にぼくはそのことについて不快に思うわけでもなかった。ぼくはそこまで他人を独占したいとは思っていない。彼の、ソフトクリームに関する思い出が気にならないわけではなかったが、ぼくはあえて何も言わなかった。
 コートの席が空くまでぼくらは少しだけその場に立って待っていた。しばらくして親子連れが席を立ったので、幾斗君は二人分の席を確保し、ぼくが二人分のソフトクリームを買いに行くことにした。
 ぼくがソフトクリームを両手に持って戻ってくると、幾斗君は無言で右手を差し出して自分の分を受け取った。ぼくは彼の向かいの椅子に腰掛け、バニラソフトクリームの先を舐めた。甘い甘い、クリームの味。その味で、ぼくも無意識のうちに過去へ少し意識をトリップさせる。いつも甘いクリームの香りをまとった、やわらかな笑顔の似合う彼女。彼女の淹れてくれたコーヒーも、彼女の作った料理も、彼女の掃除してくれた部屋も……もう、二度と見ることはできないのだろうけど、ぼくは、彼女のくれたあたたかさや大切な気持ちは、決して忘れないつもりだ。
 ぼくはぼんやりと彼女を思い起こしながら、ソフトクリームを少しずつ減らしていった。考えごとに夢中だったぼくに、彼がこう声をかけるまで、ぼくの心の中を埋めていたのは彼女の記憶だった。彼の言葉が、ぼくの意識を過去から現実へと移行させた。
「……あんたのソフトクリームの食べ方、エロいな」
あいつみたいだ、と付け加える彼は笑顔だった。
ぼくはその言葉に動揺するより先に、彼にこう言った。
「その言葉はそっくりキミにお返しするよ……」
どう考えたって、彼の長い舌がチョコソフトを舐めまわしているさまの方がそういう茶化しにはふさわしいと思う。この月詠幾斗という少年は、何をやっても妙に大人びた色気があるのだ。彼に自覚があるのかないのかはいまいち判じがたいのだが。
 彼はぼくの言葉を無視して、上目づかい気味に、
「なんか、ムラムラするかも」
とぼくを見た。この少年は、またぼくを挑発してからかっているらしい。そんなことはわかっているはずなのに、カッと顔が熱くなる。そんなぼくに、さらに追い打ちをかけるように、彼はにっと意地悪く笑った。
「……襲わせてよ、センセイ」
その言葉でぼくは我にかえる。
 だめだ、この子のペースに乗せられては。からかわれているだけ、なんだから。
 この子は誰にだって、そう言えるのだから。
「冗談はやめてくれる? あとぼくは、キミの先生じゃないから」
ぼくはそっぽを向いてそう言ってから、大きく口をあけてソフトクリームにかぶりついた。
 彼は猫のように――実際、ある意味猫なのだけれど――目を細めて、
「……ケチ」
と呟いた。ぼくはその表情の真意がわからず、少しだけ自分の鼓動が速くなっているのを自覚した。
 この気持ちは、なんだろう。
 彼の気まぐれな言葉に、こんなにも心をかき乱されるのは、なぜだろう。



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