2024年11月15日の投稿[2件]
2024年11月15日(金)
2024年11月15日(金)
番組の視聴ログがどこかに手軽に書けると嬉しいなと思い、Fedibirdで残してみることにした。お試しで。
ラジオもテレビも残しておきたいため、自動化するのは難しい。が、できるだけ手順は簡略化しておきたい。
ということで、テンプレを作っておいて、そこにコピペしていく方式でやってみている。
見たよ:「番組名」(回)サブタイトル #shiohamalog
というテンプレにしておき、ラジオの場合は「見たよ」を「聞いたよ」にしたり、流し見の場合は「流し見」に変えたりしている。
タグをつけたのは、あとからnotestockで検索した際に、ログ関連のものだけ引っ張り出せるようにするため。自分しか使わないタグなので、自分の名前をつけておいた。
昔から、どれだけ使わなくなっても、SNSアカウントを削除したことはほとんどない。何度か、愚痴アカウントみたいになってしまったTwitterを削除したりはしたけれど、本アカウントはそのままだ。
これは、SNSを交流のためのものだけではなく、自分の日記帳でもあると思っているためで、消したら記録が消えてしまうから嫌なのだった。
そんなに頻繁に見返すわけではないけれど、見返したいときにないとやっぱり困る。
手書きの記録だけでなく、電子の記録もできるだけ大切にしたいという気持ちがある。
Fedibirdのログも、あとから活用できるような記録にしていきたいな。
#手帳
ラジオもテレビも残しておきたいため、自動化するのは難しい。が、できるだけ手順は簡略化しておきたい。
ということで、テンプレを作っておいて、そこにコピペしていく方式でやってみている。
見たよ:「番組名」(回)サブタイトル #shiohamalog
というテンプレにしておき、ラジオの場合は「見たよ」を「聞いたよ」にしたり、流し見の場合は「流し見」に変えたりしている。
タグをつけたのは、あとからnotestockで検索した際に、ログ関連のものだけ引っ張り出せるようにするため。自分しか使わないタグなので、自分の名前をつけておいた。
昔から、どれだけ使わなくなっても、SNSアカウントを削除したことはほとんどない。何度か、愚痴アカウントみたいになってしまったTwitterを削除したりはしたけれど、本アカウントはそのままだ。
これは、SNSを交流のためのものだけではなく、自分の日記帳でもあると思っているためで、消したら記録が消えてしまうから嫌なのだった。
そんなに頻繁に見返すわけではないけれど、見返したいときにないとやっぱり困る。
手書きの記録だけでなく、電子の記録もできるだけ大切にしたいという気持ちがある。
Fedibirdのログも、あとから活用できるような記録にしていきたいな。
#手帳
非常に読みやすく要点がまとめられており、炎上の陰でなにが起きていたのか、裏取りのないまま、不確実な情報が拡散されていった経緯を知ることができる。
個人的には、当時から「こんな怪しげな雑誌の記事を信じるのはおかしい。すべてではないにしても、多少は話を盛っているのでは?」という疑念があったため、炎上には加担していなかった。
90年代~00年代は、雑誌にしろムック本にしろ、内容が盛られていたり、インタビューがでっちあげだったりということは非常に多かったからだ。特にサブカル界隈では、嘘であることが当たり前だった。
しかし、胡散臭い雑誌の記事を鵜呑みにするのが愚かであることはもちろん当たり前だが、同時に、この本に書いてあることを鵜呑みにするのもよくないだろうという視点は持っておきたい。
いじめられた被害者当人の証言はなく、事実とは異なる内容の記事を仕上げた雑誌編集長の山崎氏が取材を拒否しているというのもあって、情報の不完全さはある。
だが、当時、現場にいた同級生複数に裏を取り、さらにそれ以外の同級生や音楽関係者や雑誌関係者にも取材を行っているため、雑誌記事単体よりは信用できる筋の情報だろう。
また、誠実に経緯のすべてを打ち明けた小山田氏本人と、取材から逃げ回っている山崎氏、どちらが読者から見て信用できるかといえば、やはり小山田氏のほうかなと思う。
嘘の内容が載った雑誌記事を訂正したかったが、雑誌関係者との関係を悪くしたくないために訂正の機会を逃しつづけたことで、結果的に長年にわたって時限爆弾を抱えているような状態になってしまったり、炎上がはじまったときにも気を遣って雑誌側へ抗議をしなかったりと、人のよさが完全に裏目に出てしまっているくだりには、誰にでも起こり得る事故なのではないかと思わされる。
炎上はドミノのようなもので、ひとつひとつは「これくらいは放っておいてもいいかな」「人間関係を悪くしたくないから言わないでおこうかな」「今更言っても仕方ないかな」という些細な要素なのだが、それらが折り重なって突然倒れはじめるとき、もはやだれにも止めることのできない大惨事となる。
事態が悪化するまでに、誤った情報を訂正できるきっかけはいくつもあったが、それをしなかった小山田氏にも責任の一端はある。
同級生たちも、雑誌の記事の内容が当時の状況とは著しく異なるものであることを認識しながら、自分にまで炎上の火の粉が降りかかるのが怖くて、訂正する気にはなれなかったと話している。「触ると巻き込まれるから、見て見ぬふりをする」。皮肉にも、これはまさにいじめと同じ構図だ。
雑誌記事に書かれたいじめの内容に対して怒りを燃やした人々が振りまく正義の火の粉が、実際にはそれ以上の苛烈ないじめとなって、猛威を振るっていたという事実に震える。
本来は、この記事を載せた雑誌関係者が表舞台に出ていって訂正するのが筋だったのだが、それも行われなかったことが惨事の規模を広げる一因となっていた。
この炎上のただなかで、「今の日本のマスコミ全体に聞きたいのは、あのとき何が起きたのかを、調べ直したのか?ってことなんですよ」と語った爆笑問題の太田さんはすごい人だなと思った。
この発言はかなり叩かれていたという記憶があるけれど、結局、当時はだれも調べ直していなかったのだ。
それだけではなく、たぶん、小山田氏本人の話すらまともに聞く人はいなかったのだろう。
「叩く前に調べ直すべきだ」という理性よりも、「絶対に許せない、叩きたい、気持ちよく叩きたいからむしろ事実であってほしい、調べ直してほしくない」という、正義に見せかけた群衆のバッシングの欲望が勝った瞬間でもあった。
最近、タイタンという事務所の特異性についてよく考えるのだけれど、渦中でこれを口にすることができる太田さんが君臨している事務所だからこそ、大島さんのような『忖度をしない』後輩が生まれるのかもしれない。
巻末にも直近での炎上がいくつか書かれているが、日々、われわれの感情をゆさぶる炎上案件は増えつづけている。強烈な感情のゆさぶりに気を取られているうちに、情報の裏取りをしていないことに気づかない(気付かされない)ような構造が確実にできあがっていると思う。
感情を動かす前に、まずは「これって本当に事実なんだろうか?」と疑っていかなければいけないだろう。ちゃんとしたソースはあるのか。信頼できる筋の情報なのか。偏った考えや誤報ではないか。
令和という炎上の時代を生き抜くために、そして自分が炎上するかもしれない未来のために、備えていこうと思える一冊だった。
当時、炎上に加担した人や怒りをSNSにぶつけた人は、この本を読んで事実について考えるべきだと思うが、そういう人たちはこういう本は読まずに、きょうも新たな標的を探しているんだろうなと思うと、やるせない。畳む
#読書