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2025年7月29日
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2025年7月29日(火)
原田実「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統」を読み終えた。
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唐突だが、少し古めの駐車場で見かける「赤ちゃんが寝ています」という立て看板を見ると、なんとも言えない気持ちになる。
看板の文字は色あせ、設置からすでに30年は経っているのではないかという古び方だ。
おそらく、当時その建物にいた赤ちゃんも、今ではすっかり大人になっているだろう。
もちろん、「赤ちゃんが寝ています」は「実際に赤ちゃんが寝ている」という意味ではなく、「静かにしてほしい」という間接的な訴えだということはわかっている。
けれども、もしその建物にもう赤ちゃんがいなかったら?
それはつまり、「自分の願いを通すために、実在しない赤ちゃんを盾にしている」ことにならないだろうか。
「住民が寝ています」なら、住民がいるかぎり嘘ではない。
それなのに、あえて「赤ちゃんが寝ています」と書くのは、「起こしてしまったら大変なことになる、か弱い存在」を引き合いに出すことで、より強く静寂を求めているように感じられる。
そこに、ほんの少しの違和感、モヤモヤが残る。
最近の新しい駐車場では、こうした表示はあまり見かけない。
おそらく、一時期流行した決まり文句だったのだろう。
長くなってしまったが、ここで言いたいのは、「主張が正当であれば、その根拠となる事実は多少いい加減でも構わないのか?」という問題である。
たとえば「駐車場で騒音を出す人やアイドリングを続ける人がいて、近隣住民が迷惑しているから静かにしてほしい」という主張には異論の余地はない。とてももっともな願いだ。
しかし「赤ちゃんが寝ているから静かにしてほしい」という理由は、証明しようがなく、少しのハッタリを感じる。
仮に本当に寝ていたとしても、今は起きているかもしれないし、もはや赤ちゃん自体がいない可能性だってある。
「赤ちゃんが寝ている」という前提がなくなった瞬間、「では静かにしなくていいのか?」という矛盾が生じる。看板の趣旨から逸れてしまうのだ。
もちろん、この程度のハッタリなら許される範囲ではあるが、それでも「虚構であっても構わない」という姿勢は、慎重に見直されるべきではないだろうか。
さて、本書で取り上げられている「江戸しぐさ」もまた、似たような構造を持っている。
その中身は、「みんなに優しく」「思いやりを大切に」といった道徳的な内容で、基本的には異論を挟みにくい。
一部、自己中心的に感じられるしぐさもあるが、それも含めて「まあいいことを言っている」程度の印象を持つ人も多いだろう。
だが問題なのは、その道徳の来歴だ。
「江戸時代の庶民が実践していた」とされるこの江戸しぐさ、実際には、戦後に捏造されたもので、史料的根拠も裏付けもまったく存在しない。
むしろ、江戸時代の暮らしや常識に照らし合わせれば、とうてい成立しえないような考え方ばかりが並んでいる。
それでもかつては、「江戸しぐさはいいことを言っているのだから、事実かどうかは関係ない。人に優しくするべきなのだから」という理屈がまかり通っていた。
けれども、どんなに立派な主張であっても、それが虚構の土台に立っていれば、正しさそのものが損なわれる。そのことは、もっと強く意識されていいはずだ。
この本では、「江戸しぐさ」というオカルト的な道徳が、いかにして教育現場に食い込み、教科書にまで載るようになったのかを、著者が丹念に検証している。
本来なら「江戸しぐさはあった」と主張する側が、その証拠を提示すべきだ。だが、それは存在しない。
代わりに彼らが持ち出してきたのは、薩長による「江戸っ子大虐殺」によって証拠が失われた、という荒唐無稽な説である。薩長もいい迷惑だろう。
そこで、証拠が存在しないことを示すために、著者は逆説的に「江戸しぐさはなかった」とする側から、文献や当時の慣習をひとつひとつ丁寧に示していく。
そのロジカルな反証の積み重ねが、とにかく痛快で読ませる。
偽史が生まれる背景には、「愛国心」や「現実逃避」あるいは「道徳的理想」が潜んでいることが多い。
「自分の大好きな日本は、もっとすごい国であってほしい」という願望が、事実ではない歴史を生み出す。
その罠に、自分自身も引っかかっていないか、立ち止まって考える必要があると思わされた。
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看板の文字は色あせ、設置からすでに30年は経っているのではないかという古び方だ。
おそらく、当時その建物にいた赤ちゃんも、今ではすっかり大人になっているだろう。
もちろん、「赤ちゃんが寝ています」は「実際に赤ちゃんが寝ている」という意味ではなく、「静かにしてほしい」という間接的な訴えだということはわかっている。
けれども、もしその建物にもう赤ちゃんがいなかったら?
それはつまり、「自分の願いを通すために、実在しない赤ちゃんを盾にしている」ことにならないだろうか。
「住民が寝ています」なら、住民がいるかぎり嘘ではない。
それなのに、あえて「赤ちゃんが寝ています」と書くのは、「起こしてしまったら大変なことになる、か弱い存在」を引き合いに出すことで、より強く静寂を求めているように感じられる。
そこに、ほんの少しの違和感、モヤモヤが残る。
最近の新しい駐車場では、こうした表示はあまり見かけない。
おそらく、一時期流行した決まり文句だったのだろう。
長くなってしまったが、ここで言いたいのは、「主張が正当であれば、その根拠となる事実は多少いい加減でも構わないのか?」という問題である。
たとえば「駐車場で騒音を出す人やアイドリングを続ける人がいて、近隣住民が迷惑しているから静かにしてほしい」という主張には異論の余地はない。とてももっともな願いだ。
しかし「赤ちゃんが寝ているから静かにしてほしい」という理由は、証明しようがなく、少しのハッタリを感じる。
仮に本当に寝ていたとしても、今は起きているかもしれないし、もはや赤ちゃん自体がいない可能性だってある。
「赤ちゃんが寝ている」という前提がなくなった瞬間、「では静かにしなくていいのか?」という矛盾が生じる。看板の趣旨から逸れてしまうのだ。
もちろん、この程度のハッタリなら許される範囲ではあるが、それでも「虚構であっても構わない」という姿勢は、慎重に見直されるべきではないだろうか。
さて、本書で取り上げられている「江戸しぐさ」もまた、似たような構造を持っている。
その中身は、「みんなに優しく」「思いやりを大切に」といった道徳的な内容で、基本的には異論を挟みにくい。
一部、自己中心的に感じられるしぐさもあるが、それも含めて「まあいいことを言っている」程度の印象を持つ人も多いだろう。
だが問題なのは、その道徳の来歴だ。
「江戸時代の庶民が実践していた」とされるこの江戸しぐさ、実際には、戦後に捏造されたもので、史料的根拠も裏付けもまったく存在しない。
むしろ、江戸時代の暮らしや常識に照らし合わせれば、とうてい成立しえないような考え方ばかりが並んでいる。
それでもかつては、「江戸しぐさはいいことを言っているのだから、事実かどうかは関係ない。人に優しくするべきなのだから」という理屈がまかり通っていた。
けれども、どんなに立派な主張であっても、それが虚構の土台に立っていれば、正しさそのものが損なわれる。そのことは、もっと強く意識されていいはずだ。
この本では、「江戸しぐさ」というオカルト的な道徳が、いかにして教育現場に食い込み、教科書にまで載るようになったのかを、著者が丹念に検証している。
本来なら「江戸しぐさはあった」と主張する側が、その証拠を提示すべきだ。だが、それは存在しない。
代わりに彼らが持ち出してきたのは、薩長による「江戸っ子大虐殺」によって証拠が失われた、という荒唐無稽な説である。薩長もいい迷惑だろう。
そこで、証拠が存在しないことを示すために、著者は逆説的に「江戸しぐさはなかった」とする側から、文献や当時の慣習をひとつひとつ丁寧に示していく。
そのロジカルな反証の積み重ねが、とにかく痛快で読ませる。
偽史が生まれる背景には、「愛国心」や「現実逃避」あるいは「道徳的理想」が潜んでいることが多い。
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