2025年9月11日の投稿[1件]



「気にすること座談会」の「エモい」のくだりがおもしろかった。
「言葉を使う仕事の人が『エモい』で済ませたら終わりだろ」とふっかける加藤さんに対し、「言葉だけで意味を確定しているわけじゃなくて、シチュエーションとか言い方とかで、仲間内になんとなくのニュアンスを伝える言葉だから」と恐山さんがフツーに批判を入れているのが、「そっかぁ、そうだよな」と思った。恐山さんのこういう冷静なところ、いいよなあと思う。

「エモい」に限らず、こういう新しく出てきた、意味を広めにとってあるスラングや流行語に対して「そんな言葉使うなよ、意味広すぎるだろ」という流れって、必ずある。
でも、「エモい」にしろ「ヤバい」にしろ、その発言をしている現場においては「このキャラの◯◯なところに心を締めつけられて、エモいよね」、「このソフトクリーム、おいしすぎてヤバいよね」みたいな文脈があって、その文脈を共有している人に対しての「そうだよね」「すごくわかる」という意味を込めて言っているのだという。
通りすがりの知らないおっさんには言っていないよね。

すでに同じ感情を共有済みの相手への発信であるわけだから、その感情の大元の原因の内容を改めて説明するのって、ある種、無駄ですらあるというか。
「エモい」で済ませることによって、他の詳細な部分にリソースを割けるところもあると思う。
でも、その発言の場がSNSであったりすると、文脈を共有していない人がそのやりとりを見て、「なーにがエモいだ! 意味わからん!」とキレたりもするのだろうな。
「感情が動いた」瞬間に「これはエモい!」と発言することで、時間を置かずに速攻で発信ができるとか、そういうメリットもありそうな気がするんだよな。

「自分が使うことは少ないけど、人が使っていても、なんとも思わない」というマインド、いろんな局面で大事な考え方だと思う。差別的な言葉とかはまた別として。
ちょっと違うシチュエーションだけど、昔の知人に、「確信犯」とか「煮詰まる」みたいな、「すでに限りなく誤用ではなくなった誤用表現」を見かけるたび、毎回凄まじい勢いでキレる人がいて、「そのキレは、生産的じゃないのでは……?」と思ったことを思い出したりもした。
これも、自分が正しい表現を知っていればいいだけの話で、人の表現に口を出して、途中で話の腰を折るのはなんとなく違うのでは?みたいな。そこは話の核心じゃないしな、と。
仲のいい人にそれとなく教えてあげるくらいならいいんだけど、「は? 間違ってるけど?? ありえないよね??(ブチギレ)」みたいな感じだったので、「もうちょっといい言い方はないのか?」と思っていた。
言葉そのものへの愛やこだわりが、必ずしもその場のコミュニケーションを円滑にするとは限らないという例だと思った。言葉を愛していることと、コミュニケーションを愛していることは、きっと相容れないこともあるのだろうな。畳む


#視聴メモ

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